文化・芸術

2008年8月14日 (木)

マダム貞奴  二話

Photo_2 二葉館の窓辺に見える、百日紅です。

大正時代に建てられたこの館は、

山の小高いところにあったと、教えていただきました。

屋根瓦の色が、さぞかし鮮やかだったことでしょう。

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明治44年、夫の音二郎が他界しての後、

大正6年、貞奴は女優業を退きました。

それからは絹織物の生産販売、諸外国との貿易など、

事業に没頭していたそうです。

そして、大正9年、二葉御殿が建てられました。、

この館は福沢諭吉の養子であった福沢桃介が、

貞奴と暮らすがための館として用意したそうです。

木曽川に日本初の水力発電をと偉業を成し遂げた桃介は、

諭吉の娘婿でありました。貞奴は桃介の愛妾として館に入りました。

事業のためのパートナーとして、桃介が迎えたとも語り継がれております。

二人は10代のころの顔見知り、

恋仲であったとも、その恋は悲恋であったとも、語られているようです。

歳月が巡るということは、終わったはずのことが、

また始まるかもしれないということなのでしょうか… 

人生、何が起きるかわかりませんわね。

館では、政財界人・文化人等々をお招きしての、宴が度々催され、

館の赤い絨毯を敷詰めた螺旋階段には、美貌の貞奴が、

大きな扇をそよがせながら登場したそうです。

蚊螺旋階段の下に居並ぶ名士たちからは、歓声が上がるほど、

それはそれは美しい姿であったと、今も伝えられております。

現在の東京、人形町界隈の花柳界にて、

名妓に与えられる「奴」の称号を与えられた貞奴、

「貞奴」として一躍その名を上げそれからの長い道のりは、

大きな舞台が回るような華やぎと強さがありますわね~

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Photo_5 昭和13年には桃介が他界し、

それから8年後、

貞奴も永眠いたしました。

福沢桃介は多摩墓地に埋葬されましたが、

川上貞奴は、生前に自らが建立したお寺の墓地に眠っております。

二葉御殿では、邸内と数々の遺品を拝見しながら、

大きな物語を残されたお二人を偲ばせていただきました。

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Photo_9 館の2階は和室がありますのね。

マダム貞奴の文机が、

置かれたお部屋はこぢんまりと、小さなお部屋です。

帰り際に、マダム貞奴の身長は148cmと聞かせていただき、

「あら、そうなんですか?」思わず聞き返しをしましたですね。

聞いてより、初めて小柄な貞奴のお姿をふうっと想像、

不思議なものです。

それまでは手前勝手に高身長のマダムを思い描いておりました.から…

 ☆ 文化のみち・二葉館を見学しまして、記憶に残る史実を、

  感じるままに、記録いたしました。

  歴史上の人物を書かせていただきましたので、

  敬称を略しております。お許しくださいませ。

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2008年8月11日 (月)

マダム貞奴  一話

八月八日、北京五輪開会式、空中を天女が舞いましたですね。

TVの前でしたが、光・音・演技者・演出、その華やかさに見とれながらも、

「一つの世界、一つの夢」のスローガンが、確かなものとして、

未来へ繋がれてゆくものなのか…  … 物思う夜でもありました。

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世界と言えば、明治時代の事、

欧米の社交界で「日本女優」として、

初めて名声を知らしめた「川上貞奴」邸を見学いたしました。

橙色の屋根瓦がまばゆい西洋館風の瀟洒な建物です。

室内は和洋折衷になっております。

名古屋市東区二葉町から現存地へと移築復元されたとのこと、

昔日は「二葉御殿」と呼ばれていたそうです。

創建時の姿を再現しております。

室内から眺めたお庭の百日紅が、わたくしには印象的でした。

灼熱の太陽を撥ね返すよう咲く百日紅、

飛び散るように咲く花姿に、貞奴の姿が重なります。

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Photo_5 明治の元勲、伊藤博文とか、

西園寺公望とか、

芸妓であったころの貞奴は、

並々ならぬ殿方の寵愛を受けております。

諸芸に秀でた才能もさること、エキゾチックな風貌に、

抜けるように色白の素肌であり、見事な舞台栄えする姿であったとも、

二葉御殿、邸内を案内してくださる方に聞かせていただきました。

川上音二郎の妻として、欧米の舞台興行に同行した貞奴、

欧米で得た名声、

「マダム貞奴」」としての称賛をほしいがままにした貞奴なのでしたが、

40歳にして、音二郎に先立たれてしまいました。

そしてそれからは、二話へと続きます。長いなぁー、お許しを。

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